唐の『臨済義玄』(?~八六六、一説には八六七)を祖とする。
わが国では鎌倉時代に『栄西』が
『黄龍派』←(おうりょうは)を伝えたのにはじまり
その後に『蘭渓道隆』などが来日して
『楊岐派』←(ようぎは)を伝える。
代々、武家幕府の保護を受け、武家社会において
政治・外交・文化の精神的中核となった。
臨済宗では座禅を悟りに至る手段と考え
座禅の最中に「公案」を与えて思索させる
「公案禅」が特徴である。
「公案禅」は「看話禅」とも呼ばれ、
「公案」に対する答えを工夫(思慮)することで
自己究明をはかる禅である。
悟りに達するには順序を追って修業し
段階的に自分の体験を深めていかねばならないとする
漸悟」←(ぜんご)の立場をとる。
臨済宗では特定の本尊仏はなく
釈迦牟尼仏、薬師如来、大日如来、観世音菩薩
達磨大師、臨済義玄などを祀っている。
臨済宗では『釈迦の悟りは言葉では表現できない』
とするところから、特定の経典を定めていないが
『般若心経』や『金剛般若経』・『大非呪』・『観音経』
『白隠禅師和讃』などが読まれる。
わが国では、鎌倉末期に
『鎌倉五山』として
『建長寺』・『円覚寺』・『寿福寺』・『浄智寺』・『浄妙寺』
その後『『京都五山』』として
『天龍寺』・『相国寺』・『建仁寺』・『東福寺』・『満寿寺』
が定められた。
後に鎌倉派と京都派の確執が生じ一三八六年に室町幕府により
双方の五山が正式に確立し
『南禅寺』を別格として『京都五山』の上に定められた。
その後の変遷を経て『五山制度』は廃止される。
現在では
『天龍寺派』・『相国寺派』・『建仁寺派』・『南禅寺派』・
『妙心寺派』・『建長寺派』・『東福寺派』・『大徳寺派』・
『円覚寺派』・『永源寺派』・『方広寺派』・『国泰寺派』・
『仏通寺派』・『向嶽寺派』の十四派に分かれる。
花園法皇を開基とし綸旨をもって関山慧玄禅師を開山とする
正法山妙心禅寺の開創である。
まさに、妙心寺の歴史は、花園法皇お一人の
発願によって始まったと言える。
妙心寺は、臨済宗妙心寺派の大本山であり
1237(延元2)年、開基・花園天皇のご発願により、
関山慧玄(無相大師)を開山として1338~1342(暦応年中)年
花園離宮を禅寺にあらため開創された。
以来、臨済宗14派の中の一派にあって
応・灯・関(おうとうかん)流の禅
(大応国師・大灯国師・関山慧玄無相大師へとその禅風を継承してきた)
と称され、
今日に至るまで650有余年にわたりその法灯をかかげ
全国3500の妙心寺派下寺院の中枢として位置している。
当山の開創
【開創】寛文2年(1662年)
【開山】玄外宗三和尚
寛文2年(1662年) に苗木の殿様の菩提寺であった雲林寺の和尚さんにより
長増寺を開かれたと伝えられています。
ところが、恵文和尚(六世)の天明6年(1786年)12月に
お正月の支度の残り火より、大火事になり本堂をはじめ
仏像、過去帳など焼けてしましました。
その後、庄屋幸之助の献身的な尽力により本堂や庫裡が再建されました。
明治3年苗木藩主青山直道が、すべての藩士を神道にしたことによって
領内のすべてのお寺を取り壊してしましました。
やがて神葬令も解け姫栗の人達、住職も再建に尽力しましたが
一度辞めた寺号を復活することは困難を極めました。
明智町に「長楽禅寺」という寺号だけが残されている
明智光秀公のゆかりの寺があることが分かり
明治14年、当時の和尚(八世)が
この寺号をこの地に移し現在の長楽寺が再建されました。